小川 直也(おがわ なおや、1968年 3月31日 - )は、日本の柔道家、総合格闘家、平成期のプロレスラー。. ただでさえ、猪木が作った『ufo』との不協和音が伝わってくるのに、坂口征二社長(当時)を襲撃したり、試合前のルールミーティングを欠席したり、どんどん怪しさを増す小川の行動。橋本が不安に思っても無理はないだろう。 小川サイドだけではない。 猪木新団体U.F.O.旗揚げ戦 ↑当初のメインは橋本vsケン・シャムロックでしたが、WWF出場のためドタキャン。急遽、小川のデビュー戦が組まれました。当初は長州力とのタッグでデビューする予定の小川でしたが、いきなりドームのメイン、当時のIWGP王者橋本とのシングルマッチという大抜擢(この試合にはベルトは賭けられず)。小川は柔道着のまま試合に臨み「異種格闘技戦」として行われました。小川は橋本の打撃に苦しみますがDDTを大外刈り(STO=スペース トルネード オガワ:猪木命名)で切り返し、そのまま裸締めで9分32秒で勝利。, ●1997.5.3大阪ドーム スキャンダラスでセンセーショナルな猪木プロレスの原点と... ①「馬場と猪木」に続き、いよいよ今回は時系列で事件の真相に迫るドキュメント編です。 TV中継放送直後の感想 11月には西ドイツのエッセンで開催された世界選手権に補欠として出向いたが、当初2階級に出場する予定だった正木が初日の95 kg超級初戦でベリチェフに敗れた際に持病の腰痛を悪化させたため無差別には出場できなくなり、代わって小川が出場することになった[9]。2回戦は指導勝ち、3回戦は判定勝ちと予選ラウンドはややもたついたものの、準決勝ではソ連のハビル・ビクタシェフを合技で下すと、決勝ではイギリスのエルビス・ゴードンと対戦して開始すぐに払腰を返されるが場外でポイントにならず、その後小外刈で技ありを取って優勢勝ちして、史上最年少の19歳7か月で世界チャンピオンとなり、一躍1988年ソウルオリンピック95 kg超級代表の有力候補となった[9]。 新日のSGタッグリーグ開幕戦で永島取締役と橋本が同席して記者会見 ↑メインは小川vsジェラルド ゴルドー、小川がチョークスリーパーで勝利。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, 大阪万博1970(昭和45)年生まれの男のロマン。主に70~90年代カルチャーについて記憶と共に無差別に書きなぐります。, 【お知らせ】YouTube番組#3 非ヲタ・リアタイ世代が語る”宇宙戦艦ヤマト”. 6月にはこの当時、全日本学生柔道連盟と対立関係にあった全日本大学柔道連盟が主催する全日本大学柔道体重別選手権大会で優勝したが、学生優勝大会ではベスト8で敗れた。 いったいこの試合は何だったのか。舞台裏では何が起きていたのか。, もはや語りつくされた感のあるこの事件ですが、書かない訳にもいかないな、ということで…後年明らかになった事実を基に、つとめて冷静に、時系列で検証したいと思います。, まずはこの試合が組まれるまでの流れです。 ↑橋本はノートンとのIWGP2回連続挑戦失敗、を見てわかる通り、明らかに冷遇されていました。 小川が新日プロ坂口征二社長に控室で暴行騒ぎ しかし現実にはオリンピックで敗れたことにより、その責任を感じて現役を退くことも考えたが、恩師である原吉実に説得されて現役を続行することにしたとも語った[19]。11月には嘉納杯無差別に出場して、準決勝でコソロトフを警告で破るも、決勝ではバンバルネベルトから先に小外刈で有効を取るも裏投で技ありを取られて逆転負けを喫して2位に終わった[20]。, 1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した[19]。7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では無差別に出場したが、準決勝でポーランドのラファウ・クバツキに払釣込足で敗れるも、3位決定戦でハンガリーのチェース・イムレを掬投で破った。なお、今大会で小川が3位に終わったことにより、世界選手権の無差別における日本選手の連勝記録が13連覇で止まることになってしまった[3][21]。, 1994年4月の全日本選手権準決勝では、大学の後輩である新日本製鐵の吉田秀彦と対戦して、前半は優勢に試合を進められるが中盤に支釣込足で大きく崩すも判定となり、1-2の微妙な内容ながら敗れて大会6連覇はならなかった。12月には講道館杯に出場するも、決勝で天理大学の篠原信一に0-3の判定で敗れた。引退後には、自分の指導者人生は小川に始まり小川で終わるとまで述べた原吉実との師弟対談において、この時期の判定に関しては納得いかず、「正直言って、俺に引退されたら困らないのかなあ、それにしては乱暴な扱いだなあと思っていましたよ」と大きな不満を抱いていたことを率直に語っていた[3]。, 1995年の2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でドゥイエに大内刈で敗れるも、3位決定戦ではアルゼンチンのオルランド・バッチーノを足車で破った。続いてオーストリア国際にも出場するが、準決勝でオーストリアのエリック・クリューゲルに指導を取られ敗れて3位決定戦は棄権した。3月には6年ぶりに全日本選手権の東京予選に出場すると、出場権を確保したベスト8の段階で棄権した。4月の全日本選手権では決勝で篠原を横四方固で破り、2年ぶり6度目の優勝を果たした[3]。5月の体重別準決勝では金野相手にお互いに牽制しあうあまり両者反則負けとなった。6月の実業団体1部決勝での新日本製鐵戦では吉田と対戦するが引き分けとなり、チームも2位に終わった。9月に幕張で開催された世界選手権では、準決勝でドイツのフランク・モラーに一本背負投で有効を取られて敗れるが、3位決定戦ではトルコのセリム・タタログルに足車で一本勝ちした。12月の講道館杯決勝では金野に2-1の微妙な判定ながら勝利した[22], 1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁の真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると(ちなみに、当時の全日本監督である山下泰裕はこの試合で主審を務めていたが、金野の方に旗を揚げた)、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団の三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、1996年アトランタオリンピック代表に選ばれた[22]。7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった[23]。9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出し、現役を引退した[3]。, 柔道の特徴としては、左組み手から相手の奥襟を掴んで頭を下げさせながら、7500ccの肺活量にものを言わせてひたすら前に出て技を繰り出して相手のスタミナを消耗させ3分過ぎに仕留めることが少なくなかったことから、いわゆる「3分間柔道」と呼ばれることもあった[25][26]。但し、このスタイルには無駄な時間浪費と批判する向きも合った[17]。本人によると、自分の技は一瞬のひらめきで出てくるので得意技は特にないとのことだが、内股、小外刈、小外掛、支釣込足、体落、足車などが試合ではよく使われていた。後期になると掬い投げも多用するようになった[14][22]。また、支釣込足で相手を崩して抑込技に移行するパターンもよく見られた。支釣込足や膝車では腕挫腕固を併用するパターンもよく見られた。このような関節技を併用した投げは本来ノースコアとなるが小川の場合はスコアが与えられるケースがあった。小川雄勢がこの技を引き継ぎグランドスラム・東京2017男子100 kg超級決勝戦で小川直也が見守る中この技を出し技ありのスコアを主審が宣したがビデオ判定でルール通り技あり取り消しでノースコアとなった。寝技は抑込技が中心で、絞め技や関節技はあまり使わなかった[27]。しかしながら大きな大会で抑え込一本確実な状態の横四方固からの腕緘(V1アームロック)、肩袈裟固からの腕挫腕固[28]で勝利している。一方で学生時代に巻込技は使わないように指導されていたこともあって、巨体ながらそれを使うことはほとんどなかった[3]。相手を問わず一本勝ちで勝利することが多かった反面、外国選手との対戦で負けた場合は一本負けが少なくなかったので、受けの点ではやや不安定な面もあった[29][30]。, 柔道で世界の頂点に立った経歴から、その格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木と佐山聡の設立したUFOに入団した。, 1997年4月12日にプロ格闘家として必殺技の「STO(スペース・トルネード・オガワ)」をひっさげて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦はノンタイトルながら当時のIWGPヘビー級王者であった橋本真也にSTOからの裸絞めで勝利した。, 1か月後の5月3日新日本初の大阪ドームで行われた、同王座を賭けた再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KO負けを喫した。この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。, 以降スランプとなり、1997年8月10日の新日本ナゴヤドーム大会でグレート・ムタに敗れ、1998年4月4日に東京ドームで行われた、猪木引退興行「ファイナルイノキトーナメント」の対戦相手決定トーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との対戦は叶わなかった。, 1999年1月4日、東京ドーム大会[31]における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、セメントを小川は仕掛けた。小川は橋本が入場曲をバックに花道を入場する途中で「橋本!死ぬ気があるならあがって来いっ!」と、リング上から前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。, 試合が始まって間もなく、小川から数発のパンチを受けた橋本は、小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。間に入ったレフェリーのタイガー服部を橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。小川は橋本を倒し、マウントポジションを取り、頭部を「プロレス的」ではないパンチで殴り、うつ伏せで倒れた橋本の後頭部を踏みつけ、エプロンに逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけ、橋本がリング外に転落すると、その異様な展開に場内は騒然とした。橋本のセコンドについていた中西学らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、大混乱の中、試合はノーコンテスト(6分58秒)となった。, 「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、小川の格闘技的なパンチに不意をつかれた橋本は、攻撃らしい攻撃を全く行えなかった。ゴングが打ち鳴らされた後、1人リングを占拠した小川は、両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初飛行機ポーズと言われたが実際はUFOをイメージしたものであった)、「もう終わりかよ!、おいおいおいおい、冗談じゃねーぞ、オラァ!」、「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」とマイクパフォーマンスを行った[32]。リング下では、セコンド同士の言い争いに端を発し乱闘が発生しており、ついには当時引退し、現場監督だった長州力が、リングサイドのカメラマンを押し退けてリングに上がり、コーナーポストに座る小川に対して「これがお前のやり方か?」と詰め寄った[32]。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げることになる。, この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされ、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。また、この時の乱闘は両陣営が顔面を拳で殴打し合い、倒れた人間を集団で踏みつけるなど、通常のプロレスにおけるアングルに従った乱闘ではご法度の危険な行為の応酬となり、セコンドの村上和成は混乱の中で、飯塚高史らに集団で顔面を踏みつけられ、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い、入院に追い込まれている。, 当時全日本プロレスに所属していた三沢光晴は、全日本プロレス中継内で「プロレスラーが弱く見られがちな試合だった」とコメント[32]。当時の全日本の選手が、テレビで新日本について語ることは異例中の異例であった。, 1999年10月11日、社長に就任した藤波辰爾の意向もありNWA世界ヘビー級王座を賭けての橋本再起試合が決定し、4度目の対戦(レフェリーは藤波)。橋本がキックで小川を追い込むシーンも見られたがSTOの連発で橋本はグロッキー状態に。放心状態ながらも何度も立ち上がろうとする橋本を見かね、それでも試合を続行させようとするレフェリーの藤波に代わってリングサイドで試合を見守っていたアントニオ猪木がリングに駆け込み、小川を殴り試合を止め、TKO判定により完全に勝利。この試合の模様は、ニュースステーション(テレビ朝日)で取り上げられるなど、注目された試合であった。しかしながら、同番組の格闘技ニュースの選択のしかたが世間の注目度とずれていることがあるとの意見を持つ久米宏が降板している時期の出来事だった。, 2000年1月4日タッグマッチで橋本・飯塚組と対決(パートナーは村上和成)。試合は橋本・飯塚組が勝利したが、事実上試合は小川vs橋本、村上vs飯塚の図式となって進んだ。翌日のスポーツ紙紙面は試合結果よりも、橋本が小川を場外でV1アームロックに捉えたシーンを掲載した。, 同年4月7日、橋本と東京ドームでシングル5度目の対戦。橋本はこの試合に負けたら引退すると公表していた。このドーム大会はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、番組のコピー「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退スペシャル」は大きな波紋を呼んだ。, 試合は小川が優位に試合を進めた。橋本は場外からの水面張りで奇襲を仕掛けるが、橋本がオープンフィンガーグローブを外して素手で小川にパンチを入れたことにセコンドの村上が激怒し、リング内に乱入し、その後持ち直した小川はSTO6連発で橋本をKOした。テレビ中継は平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超え、反響を呼んだ。橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で勝ち越した。, 橋本は、リングの魂(テレビ朝日)の企画で、復帰を願い折り鶴を送った純真な少年ファンの兄弟(米川力兄弟)の声に応え、引退宣言を撤回した。なお、試合後小川も橋本に対して「引退するかしないかは彼自身が決めること、俺が決めることじゃない。あえて言わせてもらうとすれば、引退なんかするんじゃない」とエールを送っていた。, 橋本との抗争後は、PRIDEに参戦し、ゲーリー・グッドリッジ、佐竹雅昭に勝利した。2000年12月31日、Millennium Fighting Arts INOKI BOM-BA-YEで安田忠夫とプロレスルールで対戦し、1分38秒スリーパーホールドでレフェリーストップ勝ち。安田戦直後のインタビューで小川は「もう仲間同士でやりたくないよ」と発言している。, 2001年4月18日に、宿敵だった橋本真也率いるプロレスリングZERO-ONEの旗揚げ第2戦(日本武道館)に参戦。メインイベントで三沢光晴とタッグマッチで対戦した(小川、村上vs三沢、力皇猛)。, 試合序盤では、小川は三沢を挑発するも三沢はいなし続け、試合中盤で、力皇を捕らえている時に三沢がカットに入り、エルボーを食らったのが三沢との初遭遇となった。, 食らい慣れていないエルボーの連発に倒れこんだ小川は、仕切り直してスタンド状態で三沢と対峙しミドルキックをいなされると片足にタックルを仕掛けたが、三沢はこれを堪え、がぶる事なく小川の首を上から押さえこみ、主導権を取ろうとグラウンドで動き回る小川に対し的確に背後を取るといったレスリング技術を見せた。対する小川は三沢の足を取りながら立ち上がり、がぶろうとする三沢を大腰でマットに投げ返すとそのまま押さえ込みつつマウントを奪う。小川のパンチを上から浴びせられる三沢はガードを固めマウントからは自力で脱出できないが、力皇が小川の背後から大相撲仕込みの突進を見舞いカット。試合はその後、場外へ落ちた小川を力皇が追い、二人が争ってる最中にリング上で村上が三沢のバックドロップ気味のジャーマン3連発を食らってフォール負けを喫する。, 当然暴れ足りない小川はゴングが鳴った後、リングに上がり三沢に殴りかかった。小川に対し反撃をしない三沢だったが、ノアの選手が上がってきて小川は袋叩きにされ、橋本らもリングに上ってきたが力皇らに押さえ込められ、挙句にはノア陣営全員で勝ち名乗りをされ圧倒されてしまう。これに小川はマイクを取り「数さえ揃えば勝てると思ってるんじゃねえぞこの野郎!」とマイクを投げつけたが、解説の馳浩と吉田秀彦に「負け惜しみですね」「小川は悔しくて眠れないでしょうね」と言われてしまった。, 2002年頃から猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこともあり、主戦場をZERO-ONEのリングとし、かつての宿敵・橋本真也と「OH砲」を結成。「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)、「オレごと刈れ」(ジャーマン・スープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった合体技を開発した。, 新日本への参戦時代は、ビッグマッチへのスポット参戦が中心だったことから、同時期にデビューしたレスラーに比べてプロレスのキャリア不足は否めなかったが、この頃からマイクパフォーマンスが饒舌になり、プロレスラーとして成長した。, 2004年1月から、PRIDEを主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)と、主戦場とするZERO-ONEが共催して始まった「ハッスル」に登場。当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル!、ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、プロ野球選手の清原和博や当時自民党幹事長であった安倍晋三もこのポーズを行っている。, ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、1月から本格的にDSEが立ち上げるエンターテインメントプロレス(ショー的なプロレス)・ハッスルの記者会見が行われ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDEがあるが、それが終了した直後にハッスルが開催されることに興行的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関してはプロレス(ショー)という事なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたために、壇上に同席していた小川が「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇオラァ! 続く学生優勝大会では3位に終わった。 12月の選抜団体では3位に終わった。 6月の学生優勝大会では東海大学に敗れて2位に終わった。 元柔道オリンピック メダリスト 小川直也のプロレスデビュー戦、橋本真也に裸締めで勝利。 第1章 猪木挙式からクーデターへの胎動 ... 本Blogでたびたびご紹介する「プロレス」。 ↑一見すると小川vs橋本に関係ない出来事ですが、実は関係あるのです(後述)。, ●1997.4.12東京ドーム 坂口社長名でマスコミ各社に「橋本を無期限出場停止処分とする」旨のFAX通達 7月には体重別決勝で、新日本製鐵の滝吉直樹を判定で破り初優勝を果たしたことにより、世界選手権の代表候補に選ばれた[4]。 毎年1月4日は「イッテンヨン」。新日本プロレスの東京ドーム興行が行われる日です。 今回取り上げるのは 1999年1月4日 東京ドーム 橋本真也vs小川直也 この一戦はプロレスファンの間で一大論争を巻き起こし、フツーの「名勝負」とは違うベクトルである意味、新日プロらしい「1 10月の正力杯決勝では、高校の時から苦手にしていた金野を判定 (3-0) ながらも6回目の対戦にして初めて破り優勝を飾った[8]。 に続くその③では、TV放送を観た直後の感想をお送りします。 ◆第3部 クーデターを受けた側、猪木らの思惑 をご紹介します! ↑橋本のマッチメーク批判に激怒した長州の意向と思われます。, ●1998.12.30大阪城ホール !何がハッスル1だよ。ふざけたこと抜かしやがってプロレスなめてんだろ、お前!あぁ⁉」とテーブルをひっくり返し、同席していた橋本の制止が無ければ殴りかからんとする暴挙に出たため、記者会見が中止になるという騒ぎで幕を開けた。, ハッスルの普及を目的に、同年4月からのPRIDEグランプリに参戦。ステファン・レコと対戦し左フックでダウンを奪い肩固めによる一本勝ち。ジャイアント・シルバにはマウントパンチでTKO勝ち。準決勝ではエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦し、1R54秒腕ひしぎ十字固めで一本負け。勝っても負けても試合後はハッスルの宣伝に努め、観客と共にハッスルポーズの大合唱をした。ヒョードル戦は敗れたが、試合後に会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが、熱烈な小川コールを送った。, PRIDEでの敗退後、高田総統に「54秒で負けたという理由で出場停止にしたらどうだ」という言い分により、小川は54日間のハッスルへの出場停止となった。しかし、ハッスル5では、小川直也ではなく、「キャプテン・オー(後にジュードー・オー)」としてメインに出場した。, 同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。なお、2005年6月には、同じシングルCD「勝手に侵略者」(テレビ東京系アニメ「ケロロ軍曹」の4代目エンディングテーマ曲)を岩佐真悠子とのデュエットで発売している。同年11月にはフォトエッセイ(写真集)「裸の選択」を発売。リング上だけでは分かり得ないプロレスラーの表情を伝えている。, 2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」のメインイベントで吉田秀彦戦が行われた。この年の7月に突然の病気で亡くなった戦友・橋本の入場曲「爆勝宣言」の前奏が流れ、登場。その後は小川のオリジナルテーマが流れるが、エレベーターを降り花道に足を踏み入れた瞬間、「爆勝宣言」に曲が変わった。前奏が鳴ると共に観客の驚きの声、そして「爆勝宣言」が場内に鳴り響くと観客達はハシモト(またはオガワ)コールを叫んだ。曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている。, 試合は吉田に腕ひしぎ十字固めで見込み一本負けを喫したが、試合後のリング上、マイクで、実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した(試合中骨が折れる音をマイクが拾っている)。最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、締めた。このことに関しては吉田も後のインタビューで、「自分ならばあのような状態では戦えない」と語っており小川の力と根性に対しては一定の理解を示した。また小川は吉田に対しては後のインタビューで、「あいつは勝ち負けが全てだが、頑張っているあいつの人生についても認めているよ」と理解していた。, 2007年6月、ハッスルのストーリーでは、高田モンスター軍に移籍。『セレブ小川』として活動し、卑劣な戦法や相手レスラーを罵倒する守銭奴キャラを見せ、観客から大ブーイングや「しょっぱい」コールを浴びる。高田総統から「ハッスルから休養させる」と命じられ、本人はそれを受理、一時的に離脱した。, 2007年6月29日、アントニオ猪木が主催するIGF旗揚げ戦「闘今 BOM-BA-YE」に参戦。マーク・コールマンに6分44秒スリーパーホールドで勝利。以降、IGFを主戦場とする。, 2007年12月20日、「GENOME2」のメインイベントで安田忠夫と対戦。レフェリーにまで暴行を加え、師匠のアントニオ猪木に造反するものの、裸絞めで失神させられた。, 2008年2月16日、「GENOME3」でジョシュ・バーネットと対戦、4分48秒腕ひしぎ十字固めで一本負けを喫するも、ロープに手がかかっていたと小川が抗議。すぐに再戦が行われ、5分13秒STOボンバーからの片エビ固めで勝利を収めたが、試合後は乱闘となり、来場した田村潔司とも小競り合いとなり波紋を残した。, 2010年7月、筑波大学大学院人間総合科学研究科博士前期課程コーチング学専攻に合格。ジャンボ鶴田と全く同じ学科・専攻の後輩となる。, 2011年4月より同大学にて岡田弘隆の指導を受け、柔道指導者としての理論を学んだ[33]。なおプロレスラーとしての活動も継続しており、2011年8月27日に行われた「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」では澤田敦士との対戦で久々にリングに上った。, 2012年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2012で藤田和之と対戦したが、レフェリーストップ負けを喫した。2013年3月、筑波大学大学院を修了[34]。, 2016年2月26日のIGF・東京ドームシティホール大会で青木真也と対戦して勝利。, 2018年6月11日、「息子(小川雄勢)の指導に専念したい」としてプロレス及び総合格闘技を引退して柔道界への復帰を目指す方針を明らかにした[35]。, 「Sports Graphic Number」917・918合併号記事内「夢の有馬記念 Dream Race 1990-2016」でのロングインタビュー『オグリキャップ&武豊 奇跡1990 「26年目のオグリコール」』, 極上ワールドレコーズ 芸能人ドリームマッチ 僕らも世界一になっていいですか? 99年第一弾シリーズのカード発表 これに対し激怒した橋本は「バカバカしい、俺は出場しない」と発言。, ●1998.12.25新日オフィス 続くグルジアのトビリシで開催された世界学生では、95 kg超級に出場してオール一本勝ちで優勝したが、団体戦では2回戦で敗れた[11]。, 1989年3月には全日本選手権東京予選で優勝を果たすと、4月の全日本選手権では関根との史上初の大学生同士の決勝対決を横四方固で一本勝ちすることによって制して初優勝を果たした。 1982年10月8日の「反乱」から始まった藤波との抗争も丸一年以上が経過した1984年2月3日。当時の新日プロ恒例の雪まつり時期の... 70年代、創成期の新日プロといえばアントニオ猪木vsタイガー ジェット シンの血の抗争劇。中でもこの「新宿伊勢丹襲撃」と「大阪 腕折り」の2つの事件はあまりにも有名です。 ↑これに対し長州も紙面で対抗。猪木と長州の対立も表面化し始めます。, ●1998.10.24両国国技館 ①対戦までの時系列の経緯 ●1971年 ↑当時、猪木は引退と同時に新日プロから距離を置かれ(後述)、佐山と小川と共に新団体U.F.O.の旗揚げを目論んでいました。猪木サイドは旗揚げを前に遺恨を作り新日プロとの抗争を模索、これは当然の流れです。, しかし、この小川を使った遺恨作りは明治大学の大先輩である坂口征二、当時の新日プロ社長をガチで激怒させてしまいました。どのくらいガチかというと、坂口は小川のお中元を送り返し絶縁を宣言したくらいです!(真顔), これは当時、大きなニュースとなり、この日の武道館大会のメインで藤波のIWGPに挑戦した橋本戦は話題を持っていかれ、結果的に橋本も激怒します。, ●1998.9  ↑ドーム敗北を受け、今回はIWGPタイトルマッチ。入場テーマ曲を『闘魂伝承』から『爆勝宣言』に戻し(猪木との決別を示唆)試合に臨んだ橋本の顔面蹴りで、小川が失神KO負け(セコンドの佐山がタオル投入)。これで小川と橋本の対戦成績は1勝1敗、デビュー戦の勝ち星を橋本に返したカタチではありますが、フィニッシュの顔面蹴りは強烈無比で、かなり危険。当然、これが伏線となります。, ●1997.8.10ナゴヤドーム  10月の正力杯では決勝で関根から内股で技ありを取り2連覇を達成した。 6月には体重別の準決勝で正木を判定で破るも、決勝で斉藤に小内巻込で効果を取られて2位にとどまり、オリンピック代表にはなれなかった。 橋本、ノートンのIWGPに挑戦するも敗れ、王座戦二連敗, ●1998.11.16横浜文化体育館



7月の体重別では決勝で関根を支釣込足で破って優勝を果たして、世界選手権では95 kg超級と無差別両方の代表となった[11]。 ②試合当日、衝撃の試合展開

10月にはユーゴスラビアのベオグラードで開催された世界選手権に出場して、95 kg超級の決勝ではキューバのフランク・モレノを横四方固、無差別の決勝ではソ連のアカキ・キボルザリゼを上四方固でそれぞれ破り、計8試合をオール一本勝ちして圧倒的な強さで2階級制覇を達成した[12]。 U.F.O.旗揚げ第二戦 ↑メインは小川vsフライ(小川の勝利)。新日プロは協力を要請されますが、参戦したのはフライとジョンストンという、外様ガイジンの2人だけでした。, 続く年末のU.F.O.旗揚げ第二戦を前に、猪木は今度は「新日は藤田を活かしていない」と批判。なんとか新日との抗争を盛り上げようとしますが、坂口と長州の新日プロ側はさらに態度を硬化します。, 新日は猪木シンパの永島取締役、U.F.O.は佐山代表が矢面に立ち、水面下で対抗戦実現に向けての交渉を続けていました。, ●1998.10.30広島サンプラザホール 藤波vs長州の「名勝負数え歌」の副産物として、「テロリスト」藤原喜明の大ブレイクも外せません。 ところが社長である坂口征二が「ufoとは絶縁します、ufoの3月14日横浜アリーナには新日本の選手は出ないし、4月10日のウチの東京ドーム大会もufoの選手が上がることはない」と一転してufoとの対抗戦を否定してしまう。 しかし、小川をエースとするU.F.O.との抗争となると、どう見ても主役は橋本です。 *文中、一部敬称略 コンテンツ別のアクセス数を見ても、「昭和のプロレスネタ」はいまなお人気がある(あった)んだなぁ、と実感します。

↑シリーズ最終戦、2.14日本武道館のメインは1.4ドーム武藤‐ノートンの勝者vsトーナメント優勝者。トーナメント出場メンバーは橋本、健介、山崎、越中、天山、小島、中西、永田)と発表。


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